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英語はなぜ論理的な言葉なのか?(英語うんちく No.017)

英語は論理的で、日本語はあいまい。

 

ときおり、このような意見に出会う機会があります。

 

 

もちろん日本語にあいまいな表現、つまり相手に空気を読んでもらうことが前提の表現は数多く存在します。

 

例えば「ご遠慮願います」は文字通り見ると「広く遠い範囲でいろいろ考えてください」という意味になりそうですが、その真意は「するな!」です。

 

 

一方、英語も当然ながら逃げ場のないガチガチの直球表現ばかりではありません。

 

 

助動詞の過去形(would, could, should など)のように、とらえどころのないあいまい極まりない表現は存在します。 

 

むしろ助動詞は、あえて言葉を濁したいときに便利な表現として活用されています。

 

個人的には英語ネイティブに一番近いのは、英会話がうまい人より、助動詞のニュアンスを完全に使いこなしている人だと思っています。

 

 

 

それゆえ当然、英語でも日本語でも、論理的に議論をすることは可能です。

  

ですが、論理的に書かれている英文を目にする機会は日本語のそれよりも圧倒的に多いと感じます。

 

 

では、なぜそのような差が生まれるのでしょうか?

 

と、その前に「論理的とはなにか?」について、まずしっかりと話をしておこうと思います。

 

 

 

「論理的」とはどんなこと?

 

「論理的」の定義としては様々ありますが、Wikipedia の「論理学 / Logic」の記事から下記を引用してみます。

 

 

「論理とは、思考の形式及び法則である。これに加えて、思考のつながり、推理の仕方や論証のつながりを指す。よく言われる「論理的に話す、書く」という言葉は、つながりを明確にし、論証を過不足なく行うということ。」

 

"Logic is a subject concerned with the most general laws of truth, and is now generally held to consist of the systematic study of the form of valid inference. A valid inference is one where there is a specific relation of logical support between the assumptions of the inference and its conclusion."

 

 

 

英語版と日本語版では少し違った部分がありますが、本質的には同じことを言っています。

 

論理的とは「前提(原因)と結論(結果)の関係性を妥当であると示す能力がある」ということです。

 

 

論理とは物理などでいうところの原因と結果をつなぐ「鎖」のようなものだと思ってください。

 

実際に英語には chain of logic(論理の鎖)という表現があります。

 

 

つまり、日本語であっても「前提と結論をつなぐ論理の鎖を強固につなげる」ことで、論理的に意見をいうことは十分に可能です。

 

 

 

Because "Because" Is Important

 

論理的であるためには「原因と結果」や「前提と結論」の関連性、つまり「論理の鎖」を示さなければなりません。

 

そのために必要となるものは非常にシンプルです。

 

 

それは「理由」です。日本語でちょっと堅い言い方をすると「根拠」になります。

 

 

日本語は主語を言わないから論理的でない」という説を時折見かけます。

 

もちろん主語がないと論理がおかしくなる場合もありますが、それは主語に限ったことではありません。

 

 

「日本語があいまい」といわれる根本的な原因は、日本人のほとんどが意見を言う際に、明確に理由を示さない場合が多いことが原因と思われます。

 

 

「なぜって? そりゃそういうものでしょう。」

 

「なぜって? だってみんなそういってるし。」

 

「なぜって? ごちゃごちゃいわずに、黙ってやれ!」

 

 

このような発言が自然に口から出てしまう場合は、「論理的」とはいいがたいと思います。

 

 

なによりも論理性に重要なのは「理由 reason」です。

 

さらに突っ込んで言うと「妥当性 validity」をもつ「理由 reason」が必要です。

 

 

自分の意見を支える「妥当な理由 valid reason(s)」を述べることができれば「論理的 logical」です。

 

 

私見で恐縮ですが、欧米人やインド人と議論に限らず話をしていると「自分の意見」を言った後に、ほぼ確実に「because」と言ってきます。

 

 

こちらが何かを説明した時に「why is that?」と聞かれることなんて、数えられないほどです。

 

これは逆のことも言えて、こちらが「なんでそうなるの?」と聞くと、軽い話題だったものが小難しい話になるのを覚悟で必死に説明してくるケースも多々あります。

  

 

 

一方、日本人は「なぜって?それはそういうものでしょ」という態度の人が過半数ではないでしょうか?

 

さらに特に、古いタイプの組織で年月を過ごした方には「ごたごた言わずに、言われたことを黙ってやれ!」などと怒りだす人も、少なからずいらっしゃるのが日本の現実ではないでしょうか?

 

 

このあたりの温度差が「英語は論理的、日本語はあいまい」と呼ばれる理由の要因のひとつになっていると思います。

 

 

 

論理は手に入れるもの

 

「英語が論理的な言語」と言われる理由は、言語そのものの構造に起因するものではありません。

 

少なくとも私には、日本語の文法に論理的な欠陥事項は見つかりません。

 

同じく、英語も助動詞の過去形ばかりつかっていたら、なにがいいたいのかわからなくなります。

 

事実、"I would like to ..." はやんわりと断るフレーズで使います。 

 

 

論理性は言語の構造ではなく「理由」にこだわる考え方から生まれます。

 

つまり論理的に物事を考える訓練を受けることで、論理的に考えることができるようになります。 

 

 

事実、アメリカの高校や大学では論文を書く基本スタイルを叩き込まれます。

 

 

まず課題として、「主題」「仮説」「前提」「論説」「根拠」「具体例」「論駁(ろんばく)」など、テーマ別にいろんなパーツの配置がきまった書式が与えられます。

 

そして、それがシステム的に組みあがるように、「主題」や「具体例」などを記入し、論文を書く練習をします。

 

ゼロから文章を作るのではなく「既存の論理のシステムにパーツをはめ込むようにして論理構成をしていく」のです。

 

 

このようにして、少なくともアメリカで高等教育をまじめに受けると「論理的に文章を構成する型」が脳の中に出来上がります。

 

こういった型がいったんできると、意見を言う際には論理構成の要点となる事柄が自然に湧き上がるようになります。

 

 

「根拠は? その妥当性は?」

 

「偶然の一致ではないのか? 再トライして同じ結果になるのか?」

 

「反対の視点ではどうなる? 見逃している要素はないか?」

 

「具体例は出せるか? 類似のケースでは?」

 

「一時的なものなのか? 永続するのか?」

 

「過去のケースでは? 将来はどうだろう?」

 

「データに偏りはないか? 範囲を広げても成り立つか?」

 

 

などなど、です。

 

 

このようなことを自然にできるようにするトレーニングがあってこそ「英語は論理的」なのです。

 

英語を話すだけで論理的になるなら、こんなトレーニングは必要ないはずですから。

 

 

仮に、英語という言語自体がそもそも論理的という前提が成り立つとしましょう。

 

それであれば、日本で英語教育の始まる中学以降、年齢にあわせて日本人の論理性が一気に跳ね上がるはずです。

 

また英語の成績のいい人ほど、論理的なはずです。

 

英語の先生のほうが、一般的に古文の先生より論理的ですか?

 

さて、そんなことになっているのでしょうか?

 

 

 

それよりも英語圏で教育を受けた人たちは、論理的思考のトレーニングを高校~大学を受けている、というのがより妥当な推論と考えます。

 

 

 

一方、日本の学校教育で「感想文」と「評論」の書き方が全く違うスタイルになるように指導を受けた人はどれだけいるでしょうか?

 

 

日本人の多くは「論理的な文章はひとつの決まったスタイルで書いて構わない」ことすら知りません。

 

 

英語の論文の基本のスタイルは決まり切っています

 

自分の主張に合わせて根拠や具体例などの中身が変わるだけです

 

 

 

もちろん、日本人でも論理的考えられる方は数多くいらっしゃいます。

 

しかし、その絶対数が欧米に比べ少なくなるのは、文化とそれに基づいた教育に起因すると思います。

 

 

やはり言語として「英語が論理的」なのではなく「英語圏が論理性を重視する文化」だから、教育も含めた結果として英語が論理的に話されているのでしょう。

 

それでは、やっとこさ核心の部分ですが「なぜ欧米は論理性を重視する文化なのか?」について述べていきたいと思います。

 

 

 

宗教も哲学も「真理」をめざす

 

欧米は「論理性を重視する文化」と述べさせていただきました。

 

 

さてそれでは、欧米文化圏に共通して中心軸となっている思想とはどのようなものでしょうか?

 

それは2つあります。

 

 

「西洋哲学 Western Philosophy」「キリスト教 Christianity」です。

 

 

大まかにヨーロッパの思想は「ギリシャ哲学~キリスト教~近代哲学」の流れになります。

 

 

現代は科学が発展しているので、あまり気になりませんが、人類の歴史は分からないことだらけのなかで世界の謎を必死に解き明かそうとする試行錯誤の歴史でもあります。

 

 

「哲学」とは論理を利用して、ものごとの本質や法則を解き明かそうとする試みです。 

 

一方、「宗教」であるキリスト教も、哲学と同じように「世界の始まり」や「人々の悩みや疑問」などについて答えを与える役割をもちます。

 

 

キリスト教を「宗教 religion」であるとして「哲学 philosophy」からあえてはずして構成された哲学の解説をよくみます。

 

しかし、歴史のうねりを学者の頭の中だけで切り貼りして整理することはできないはずです。

 

 

当然、宗教と呼ばれるものは科学的に正しいといえない迷信めいた要素をもちます。

 

しかし、まったくの世迷言だけでは人々の納得を得ることはできません。

 

宗教であっても、信者に納得してもらえるように救済や世界の仕組みを論理的に説明しようという壮大な試みは存在しています。

 

 

というわけで「ギリシャ哲学」「キリスト教」「近代哲学」を欧米の文化をかたちづくる一連のものとみる観点から論理性の発展についてみてまいります。

 

 

 

はじめに Logos があった

 

英語で論理のことを「logic」と言います。

 

この言葉は「言う、話す」という意味の古典ギリシャ語「λέγω lego」に由来するギリシャ語「Logos ロゴス」から来ています。 

 

 

ギリシャ語の「ロゴス」 には多くの意味があり、英語版の Wikipedia から引用するだけでもこれだけあります。

 

"ground", "plea", "opinion", "expectation", "word", "speech", "account", "reason", "proportion", and "discourse"

 

 

日本語に訳せば「言葉」「意見」「論理」「演説」「対話」「説明」などなどです。

 

当然、どれも「言葉」に関係するものばかりですね。

 

 

しかし一番初めに「論理」という意味合いで使ったのはギリシャの哲学者ヘラクレイトス(Heraclitus)です。

 

ヘラクレイトスは「ロゴス」を世界の本質と世の中に起こる現象をつなぐものと考えました。

 

 

論理(ロゴス)は言葉を秩序立てて組み合わせて作りあげるものです。

 

 

議論や対話においても論理(ロゴス)があれば、自分の意見が正しいものとして他の人に伝えることができます。

 

自分以外の人間にとっても「正しいもの」として普遍的に伝えるためのツールが論理(ロゴス)だといえます。

 

 

それゆえに、世の中に起こる現象の背後にある本質も「ロゴス」だと考えたのです。

 

その後、「ロゴス」「世界の本質」そのものと考えられるようになります。

 

 

 

GOD IS LOGOS

 

この世界の本質を「ロゴス」とする考え方はキリスト教にも受け継がれていきます。

 

キリスト教は「一神教 monotheism」ですので、まず一神教の世界観を理解する必要があります。

 

 

一神教とは、この世に存在するたった一人の絶対神を崇拝する宗教で、その絶対神の特徴は「全知全能 Almighty」です。

 

この絶対的な存在をキリスト教では God と呼んでいます。ユダヤ教では Jehovah であり、イスラムでは Allah です。

 

 

よく誤解されていますが、これらは「絶対的存在」をヘブライ語、英語、アラビア語で表現した言葉で、学術的な視点からは「同じ概念」とみて大丈夫です。

 

ですので God をアラビア語でいうと Allah になります。

 

反対に Allah を英語で God といっても概念的な意味は変わりません。

 

事実、BBC のイスラムに関するドキュメンタリーなどでも Allah を英語で God と表現するのをよくみます。

 

 

 

また、一神教の特徴のひとつに「あらゆる存在は絶対的な存在である一つのものから生まれた」とする考えがあります。 

 

事実、英語で God のことを「the Creator 創造主」と呼ぶこともあります。

 

そうであれば、この世のあらゆる存在はなんらかの原因があったうえで、その結果として存在しています。

 

 

このすべてのものが原因と結果(cause and effect)で結びついていることを「因果律 the law of causality」といいます。  

 

もし仮に、この世の総てが因果律でつながっているのであれば、God と人間の関係もつながっていることになります。

 

 

英語には実際に「すべてのことが God とつながっている」という前提のキリスト教的な表現がいくつかあります。

 

 

Everything happens for a reason.

 

(あらゆることは理由があって起こる) 

 

⇒ なぜ物事が起こるのかわからなくても、その原因は God なので最終的に必ず良い方向に向かう 

 

 

 

God has a plan for you.

 

(God にはあなたのための計画がある)

 

⇒ たとえ悪いことが起こっても、 God は最終的にあなたを救う計画を持つ

 

 

 

このように God はすべての存在の根源なので、あらゆるものは元をたどっていくと、いずれは God に帰ることになります。

 

 

たとえば、キリスト教徒の学者であるトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、その著書である「神学大全 Summa Theologiae」のなかで「God は原因を持たない唯一の原因 God is the uncaused cause」といっています。

 

つまり我々が論理を駆使して、よりさらに根本的な原因をどんどんたどっていけば、いずれ絶対的真理である God にたどり着けるというわけです。

 

 

世界の本質(ロゴス)を理解するためには、絶対的存在であるGod と我々人間の関係を論理(ロゴス)をつかって突き詰めていく必要があります。

 

そうすることで、人間の正しい在り方や世界の本質を知ることができるのです。

 

 

トマス・アクィナスはこのようにキリスト教とギリシャ哲学の融合を図り、論理的にキリスト教神学の立場を強化しようとした功績がいまも高く評価されています。

 

アクィナスの学問は厳密にいうと「スコラ学」という分野で、哲学に分類されていることがよくあります。

 

しかし、あくまで「God と論理性」に語っているものなので「キリスト教の一部」として、このブログではまとめています。

 

 

 

一方、様々な信仰が混ざり合い、神仏習合を当然と思い長く生きてきた日本人にとって「一神教」はなんともつかみにくい概念です。

 

おそらく多くの日本人にとって「一神教の絶対的存在」のイメージで一番わかりやすいのは「」です。

 

 

「天」は「天帝」のことで、天上にあって地上に起こるあらゆることを決定している絶対的な存在のことです。

 

天命、天賦の才、天災、敬天愛人などはまさに「天」のイメージをもつ表現です。

 

 

この中国の「天」の概念は、遊牧民の信仰から生まれたとされ、古代中国王朝を建てた人々やユダヤ民族も遊牧系であるため「天」と「God」は同じルーツと考える人もいます。

 

 

ちなみにこの「天」から地上の支配権をあたえられた者を中国の思想では「天子(皇帝)」といいます。

 

天子、皇帝について詳しく知りたい方は、「中国の「皇帝」「王」「国王」の違い」をご覧ください。

 

 

God であれ「天」であれ、世界のあらゆるものと関わる絶対的存在はまさに「世界の本質 ロゴス」と同じであるといえるでしょう。

 

 

 

God is The Word

 

世界の本質と God が同じ存在とされるキリスト教ですが、絶対者である God をロゴス(Word 言葉)と呼ぶこともあります。

 

「ヨハネの福音書 第1章第1節(Gospel of John 1:1)」にこのような文章があります。

  

 

「初めに言葉(ロゴス)があった。言葉(ロゴス)は神(God)とともにあった。言葉(ロゴス)は神(God)であった。」

 

“In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.”

 

 

英語版ではギリシャ語の「ロゴス」が「the Word」と訳されています。

 

しかしこの「the Word」はただの word ではなく「真理を伝える言葉」をもつ存在である God をあらわすものです。

 

 

なぜそう言えるかというと the Word が「the 大文字」になっているからです。

 

これはただの word ではなく「特別な Word」という意図が込められています。 

 

 

他にもキリスト教に関するもので、大文字になることで特別なものを示す表現はいくつかあります。

 

 

the Father:父なる主(God)

 

 

the Son:子なるイエス

 

 

the Book:聖書 

 

bible はもともとはギリシャ語で「本」の意味。

 

 

the Flood:ノアの大洪水

 

 

the Law:十戒(じっかい)

 

十戒の英文と意味について知りたい方こちらをご覧ください。

 

学校は教えない代名詞 Thou Thy Thee Thine(英語うんちく No.004)

 

 

the Virgin:聖母マリア

 

 

the Cross:キリストの磔(はりつけ)

 

 

the Almighty:全知全能なるもの(God)

 

 

などなどです。

 

 

さらに Word(ロゴス) はイエス・キリスト(Jesus Christ)の別の呼び方とされます。

 

全知全能なる God が生み出したこの世界に「世界の本質である God の言葉を人々に伝える」のがイエスの役割だったからです。

 

 

またカトリックでは「三位一体 the Holy Trinity」といって、God と イエスがもともとは同じ存在であり、人々を救うために世界には違う姿で現れているだけという考えがあります。

 

それゆえ、世界の本質である God はその真理を Word(イエスの言葉) という形を通して人々を救うようにイエスに託した、というわけです。

 

 

このようにキリスト教文化圏では「絶対者 God」「世界の本質」「言葉」「論理」が密接なつながりをもつ概念として扱われています。

 

もちろん当然、英語圏でもこれは常識ともいえる共通理解なのです。

 

 

 

聖書の言葉をたよりに God を探す

 

「絶対者」が存在し、その「真理」と世の中のあらゆることが「言葉」を組み合わせて説明できる「論理」でつながっているのだとしたら、どんなことでも論理的に考えれば世界のことは説明できるはずです。 

 

とはいえ、いきなり世界の真理がすぐにわかるわけもありません。

 

そのためのヒントになるものはあるのでしょうか?

 

 

キリスト教徒にとってそのツールが「聖書 the Bible」です。

 

聖書とは、イエスの言葉や「預言者 よげんしゃ prophet」が God から聞いた言葉を人々へ伝えるために記した内容をまとめた書物です。

 

 

預言者は「God の言葉を預かり人々に伝える者」という意味です。 

 

 

聖書はキリスト教徒にとっては「絶対に間違いのない真実の書」です。

 

それゆえ、キリスト教徒は「聖書の言葉」を論理的に解釈することで、God の意志や世界の本質に迫ろうとしました。

 

 

キリスト教がローマ帝国の国教となり、ヨーロッパで最も大きな影響力を持つ宗教となってからは、幾度となく聖書の内容の解釈について議論をする神学論争(theological dispute)が行われました。 

 

たとえ宗教に関する論争であっても、議論自体は非常に論理的に実施されています。

 

 

現代人は科学に対する知識は多く持っていますが、論理性そのものに関してはやはり世界の本質を探求しようとする中世の神学者や哲学者の足元にも及ばないと感じます。

 

 

もちろん、聖書には残念ながら天動説(Geocentric theory)など科学的には受け入れられない内容も数多く含まれています。

 

さらに「ユダヤ人のせいでイエスは殺された」「同性愛者は皆殺し」や「キリスト教徒以外は地獄で永遠に苦しむ」など現代では倫理的に到底受け入れがたいこともたくさん書いてあります。

 

 

とはいえ、地球がまだ「宇宙に浮かぶ丸い球」だという知識をもたない人たちであっても、なんとか世界の真理を聖書を通して探求しようとした情熱を否定することはできません

 

真理を追究する人たちがいたからこそ「地球は宇宙に浮かぶ丸い球」という科学的事実を現代の私たちが共有できています。

 

 

 

このように「世界の本質(God)は言葉で表現できる」というのが論理的思考の重要な土台になります。

 

 

言葉をつかって論理をつくりあげても、どこかで行き詰まりになるようでは、元も子もなくなりますからね。

 

最後の最後まで「言葉をつかってあらゆるもの本質を突き詰められる」という「言葉への信頼感」を抜きにしては、論理的思考に全力で打ち込むなどできないでしょう。

 

 

この英語文化圏の「言葉への信頼感」が日本とは大きく違います。

 

日本には「忌み言葉」といって、「都合の悪いことは言わない」風習があります。

 

 

受験生の前で「すべる」「おちる」といわない。

 

「おしまい」ではなく「おひらき」という。

 

 

コミュニケーションに「本来の意味」ではなく「空気」を読むことを求められます。

 

このような空気に依存したコミュニケーションを繰り返すと「言葉への信頼感」が育ちにくくなるはずです。

 

むしろ言葉を信じられず、相手の顔色をうかがうことに神経をつかうことになるのは自明の理でしょう。

 

英語圏(キリスト教文化圏)の出身者から「いいか、わるいか、はっきり言ってほしい!」という要望を伝えられた経験もある方も多数おられるのではないでしょうか?

 

 

私は空気を読む日本的感性は悪いことだとは全く思いません。

 

百人一首や奥の細道など自然や情緒を重層的に表現する文化と言葉が大好きです。

 

日本語ネイティブでつくづくよかったと思うことばかりです。

 

しかし、「論理性」が必要な時は、日本人は意図的に「脳の回路」を切り替える必要があるとは思います。

 

 

 

言葉への信頼感がディスカッションを白熱させる

 

欧米人が論理性を土台としたディスカッションを重視する理由も「言葉への信頼感」に見出すことができます。

 

「絶対的真理=言葉で表現できる」との前提があるからこそ、論理性を徹底的に問うことで本質にたどり着こうとします。

 

 

そうであるからこそ、「God」や「絶対的真理」を意味する「ロゴス」が「logic ロジック 論理」の語源であることにも納得がいきます。

 

 

 

「それは本当に正しいのか?」

 

「正しいのであれば、言葉で理路整然と説明可能だ」

 

 

 

このような発想がディスカッションの大前提として共有されているのが英語文化圏です。

 

逆に、自分の意見に対して論理的な疑問点や反論があれば、相手が納得するように徹底的に言葉で理路整然と説明し抜く覚悟が必要です。

 

 

そうでなければ、子供の口喧嘩と本質的には変わらないと考えてください。

 

もちろん、子供の口喧嘩レベルのことしかできない大学教授や評論家のセンセイたちも世の中には数多くいらっしゃいます。

 

 

何度も言いますが、欧米人にとって論理は「絶対的な存在 God」であり、歴史を貫き、宇宙を包み込む絶対的な法則のようなものなのです。

 

 

現代の日本人の多くが忘れてしまっている「曼荼羅世界」や「天命思想」のような壮大なスケールのものです。

  

それゆえ「物事の本質は言葉を使って到達できる」と信じてディスカッションに全力を投入できます。

 

 

 

イスラムがルネサンスを生む

 

すこし話がそれましたが、歴史の流れに話を戻します。

 

キリスト教は聖書の言葉を使って、論理的に神学論争などは行っていましたが、科学的な手法などで自然の摂理や物理現象などを観察するようなことはやっていませんでした。

 

むしろ、キリスト教は中世において現代では正しいとされる科学的な研究結果に対しても、聖書の内容と異なる場合、拷問、火あぶりなどの厳罰で弾圧していました。

 

 

一方で、同じ一神教であるイスラム教徒は「科学の知識は Allah の知恵に近づくこと」としてイスラム教の聖典であるコーランの内容と関係なく、科学の研究や古代インドやギリシャの古典の研究まで進めていました。

 

 

11世紀のヨーロッパは「暗黒時代 Dark Age」と呼ばれる時期にあたるのに対し、当時のイスラム圏は「イスラム黄金期 Islamic Golden Age」と呼ばれるほどに差が開いていました。

 

事実、科学系の英単語にはアラビア語由来のものがとても多いです。

 

 

alkali:アルカリ

 

chemistry:化学

 

algebra:代数

 

algorithm:アルゴリズム

 

 

このほかにも、もちろんまだまだたくさんあります。

 

もっと知りたい方は「実はたくさん!アラビア語源の英単語」のブログをご覧ください。

 

 

このイスラム教徒の科学に対する肯定的な態度が、イスラム圏を大いに発展させ、文化的、経済的、軍事的にもヨーロッパを圧倒していました。 

 

この現状にキリスト教徒も「イスラムに学べ!」ということで、留学をしたり、イスラムに倣い大学を作ったりしています。

 

 

こうしてイスラム経由で科学の知識や古代ギリシャ古典などがヨーロッパにもたらされルネサンスの下地になります。

 

 

さらにルネサンスから時代を経て、カトリック教会の壮絶なる腐敗に改革運動にもえた人たちの命を懸けた尽力により宗教改革 Protestant Reformation が起こります。

 

この宗教改革は既存のキリスト教的な価値観にとらわれていたヨーロッパを突き崩すことになります。

 

そしてカトリック教会の権威の失墜と科学的手法の導入などにより、より現代に近い形で「世界の本質」を解き明かそうという時代へと突入していきます。

 

 

 

宗教も哲学も目指すものは同じ

 

近代哲学は宗教とは切り離されたように解説されがちですが、論理を用いて「世界の本質」へと迫ろうと「ロゴス」を重視する姿勢は変わりません。 

 

 

近代哲学が、聖書の内容の科学的整合性や教会の教えや戒律の合理性を否定したのは事実です。

 

しかし聖書ではなく科学手法を用いる点は別にすれば、論理的な考え方で世界の真理を解き明かそうとする姿勢はこれまでのギリシャの哲学者やキリスト教の神学者と変わらないとみてよいでしょう。

 

 

「近代哲学の父」と呼ばれるフランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes)の有名な言葉があります。

 

 

「我思う、故に我あり」

 

「Cogito ergo sum.(ラテン語)」

 

「I think, therefore I am. (英語)」  

 

 

さて、デカルトの「我思う故に我あり」がなぜそんなに重要なのでしょうか??

 

 

ながらくキリスト教の中心教義は聖書の内容がすべて正しいというものでした。 

 

科学的手法が発達しておらず、自然現象・物理現象なども「神の御業」として理解されていました。

   

 

当時は、自然科学や論理学が哲学の一部として分類されていたため、その時代の知識や手法でわからないことが哲学には多くありました。

 

哲学ではわからないことがあるのに、神学は God だけが世界の本質を分かっていることが前提の学問です。

 

結果として神学は哲学よりも優位に考えられていました。

 

 

事実、キリスト教の教義を体系的にまとめたことで功績のあるトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は「哲学は神学の侍女 」という表現で、神学の優位性を表しています。

 

これはイスラムの影響やルネサンスなどをきっかけに科学的手法が進化を見せるまでは、大いに理解できることです。

 

 

デカルトのすごいところは「論理的思考の前提」をキリスト教ではなく「自分の視点」に移したことです。

 

 

とはいえ、物事はそう簡単にはいかなかったでしょう。 

 

「デカルトさんよ、あんたが正しい保証はあるのかい?」

 

と聞かれたら、本当のところは困ってしまうはずです。

 

 

なぜかというと、デカルトが正しいという保証なんてどこにもないからです。

 

でも、「自分の認識できるものを基準にしてよい」を大前提にしないとその後の論理が続かなくなります

 

 

 

論理とは「原因と結果」そして「前提と結論」の関連性のことです。

 

すべてが因果関係でつながっているので、論理をスタートさせるための仮説(原因)なしには結論(結果)は得られません。

 

これはスタート地点が決まらないのに、マラソンでゴールすることができないのと同じです。

 

 

この一見、自分勝手にみえるデカルトの仮定により、キリスト教ではなく人間の論理を中心とする哲学の発展が可能になりました。

 

論理の大前提がキリスト教に依存していては、論理の発展がキリスト教の神学にとらわれたままになってしまうからです。

 

 

この「自分中心視点で物事を分析する」という発想により、デカルトは「近代哲学の父」と呼ばれるに至っています。

 

それほどに「God」ではなく「自分」を基準にすることが大きな転換点だったのです。 

 

 

また、私見ながら英語が自己中心的な要素をもつ言語との仮説も書いています。興味のある方はご覧ください。

 

英語が「自己中心的」な理由(英語うんちく No.015)

 

 

 

人間はすごいです。いったん思い込みから解き放たれると一気に世界は進みます。

  

 

科学的手法や論理的思考によりおどろくほど急激に世界の事実が数多く明らかになっていきます。

 

それと同時に、キリスト教は科学的事実の解明により、どんどん支持を失って行きます。

 

もちろん文化的や歴史的な意味合いでのキリスト教の影響は非常に強く、現代でも欧米人の生活習慣や思想に大きく影響を与えています。

 

 

しかし、近代哲学もキリスト教も、どちらも言葉を用いた論理性を非常に重要視する欧米文化の大きな思想の根幹となっています。

 

 

英語が論理的に話されるのには、これほどまでに壮大なストーリーがあります。

 

英語を「論理性を非常に重視する歴史をもつ人たちの言語」として見つめなおすことで、あらたな英語の側面が見えてくると思います。

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コメント: 2
  • #1

    岡山から (木曜日, 08 8月 2019 21:40)

    日米の文化の違いを研究していたところ、ここに行き当たりました。
    欧米文化には論理の探求が根付いているのですね。
    日本語も英語も同じ言語だけれど、向いている方向性は異なるのですね。
    とても面白い記事でした。最期に文句ですが、文章が長いです。
    ただ、一つ一つの文は分かりやすかったです。

  • #2

    あるま・まーた (木曜日, 08 8月 2019 22:18)

    岡山からさん

    コメントありがとうございます。

    このブログは僕が一番塾の生徒さんに伝えたいことを書いているので、ご参考になれば幸いです。
    いろいろなことを一気に書いているのでとても長くなりました。
    とはいえ、なにかをゴッソリ削ると論理構成がおかしくなるので、そのままにしておきます。

    ブログでは触れませんでしたが、日本語は「忌み言葉」だけでなく、禅には「公案」といってわざと口先だけでいえるバカげたことで問答することで、言葉の薄っぺらさを認識し、本質的なものを探究しようとする試みがあります(禅問答のこと)。日本人は「口先だけなら何とでもいえる」ということで、実践を重んじ、カンタンに言葉を信じないのかもしれません。

    だからこそ日本人は言語をつかった論理性よりも感情・感性、身体感覚を重視した職人技に欧米人よりも優位性をもつ人たちだと思っています。